2025年11月20日、内閣官房の国家サイバー統括室が「政府機関等における耐量子計算機暗号(PQC)への移行について」の中間とりまとめを公表した。原則として2035年までに、政府機関等の暗号技術をPQCへ移行するという方針だ。10年近く先の話に聞こえるかもしれないが、金融庁ではすでに委託事業者による実証実験が2026年夏、つまりまさに今始まろうとしている。「量子コンピュータの話はまだ先」と思っていたIT部門の意思決定者にとって、これは静かだが確実に迫ってくる制度対応の号砲だと捉えたほうがよい。今回は、暗号技術の世代交代という地味だが避けて通れないテーマを取り上げ、ITストラテジストが今から準備しておくべきことを整理したい。
政府と金融界が動き出した「PQCシフト」
きっかけは2024年8月、米国NISTが耐量子計算機暗号の標準化文書を正式に公表したことにある。将来、十分な性能を持つ量子コンピュータが実用化されれば、現在広く使われているRSA暗号や楕円曲線暗号は解読可能になるとされ、これに耐性を持つ新しい暗号方式への移行が世界的な課題となっている。日本でも内閣官房が示した中間とりまとめでは、機微情報や保護期間が非常に長期にわたる情報を扱うシステムについては、2035年を待たずより早期の移行を情報システムごとに検討するよう求めており、2026年度中には具体的な工程表(ロードマップ)を策定する予定だ。金融庁も歩調を合わせ、預金取扱金融機関向けの検討会報告書をまとめたうえで、2026年夏から実証実験を開始し、得られたノウハウを手引書として2026年度中に金融界全体へ展開する計画を進めている。政府機関や金融機関だけの話に見えるが、取引先としてこれらの業界とシステム連携している企業にとっても、暗号方式の互換性確認という形で対応を迫られる場面は遠からず訪れるはずだ。
なぜ「2035年でいい」と言えないのか
ここで見過ごせないのが、ハーベスト・ナウ、デクリプト・レイターと呼ばれる攻撃の存在だ。これは、今は解読できない暗号化データを攻撃者があらかじめ収集しておき、将来量子コンピュータが実用化された時点でまとめて復号するという手口を指す。この攻撃はすでに始まっている可能性が指摘されており、完全に防ぐ手立てはない。つまり、今日暗号化して送受信している契約書や個人情報、知的財産に関するデータが、何年も先に解読されるリスクを抱えているということだ。保存期間が10年、20年に及ぶ機密情報を扱っている企業ほど、2035年という期限を悠長に構えていられない理由がここにある。皆さんの会社では、長期保存が必要なデータに、どのくらいの残存リスクがあるか一度考えてみたことはあるだろうか。制度上の移行期限と、実際にデータを守るべき期限との間には、思っている以上のギャップがあるかもしれない。
ITストラテジストが今から着手すべきこと
とはいえ、いきなり全システムの暗号方式を刷新するのは現実的ではない。まず取り組むべきは、自社がどこでどの暗号方式を使っているかを把握する「暗号インベントリー」の整備だ。アプリケーションが直接呼び出している暗号ライブラリだけでなく、利用しているクラウドサービスやミドルウェア、外部ベンダーの製品に組み込まれた暗号方式まで含めて棚卸しすることで、初めて優先順位をつけた移行計画が描ける。次に重要なのが、特定の暗号方式に固定されない「クリプトアジリティ」をシステム設計に組み込む発想だ。将来PQCへの切り替えが必要になった際、アプリケーション本体に大きく手を入れずに暗号方式だけを差し替えられる構造にしておけば、移行コストと期間を大きく圧縮できる。既存システムの更改やリプレースのタイミングは、この設計思想を組み込む絶好の機会でもある。ベンダーとの契約更新時にPQC対応のロードマップを確認する、調達要件にクリプトアジリティの観点を盛り込むといった実務も、ITストラテジストが主導すべき領域だろう。
まとめ
耐量子計算機暗号への移行は、2035年という期限だけを見れば遠い将来の課題に思える。しかし、ハーベスト・ナウ、デクリプト・レイター攻撃のリスクや、金融業界で始まる実証実験の動きを踏まえれば、着手を先送りできる時間は思うより短い。IT部門の意思決定者には、暗号インベントリーの整備とクリプトアジリティの設計思想を、次のシステム更改計画に組み込む視点が求められる。皆さんの組織では、自社の暗号資産がどこにどれだけ存在するか、答えられる状態になっているだろうか。
